岸田國士 「語られる言葉」の美 - 青空文庫

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われわれ日本人は、子供の時分から、文字を眼で読むといふ努力をあまりに強ひられた結果、「口から耳へ」伝へられる言葉の効果に対しては、余程鈍感になつてゐるやうで ... 「語られる言葉」の美 岸田國士 一 書かれた言葉と語られる言葉  われわれ日本人は、子供の時分から、文字を眼で読むといふ努力をあまりに強ひられた結果、「口から耳へ」伝へられる言葉の効果に対しては、余程鈍感になつてゐるやうである。

もちろんその他にも原因はあるだらうが、書かれた言葉、即ち文章についてやかましい批評をする人も、「語られる言葉」即ち「談話」については、案外、無関心であるなども、その証拠だらうと想はれる。

 雄弁術といふものを正統的に育てて来なかつた国だから、それも無理はないのであるが、しかし、私がここで云はうとするのは、必ずしも、さういふ限られた技術の問題ではない。

物を言ひはじめた子供の語る言葉は、いかに魅力に富んでゐるか、さういふ子供に乳をふくませてゐる若い母親の言葉が、いかに屡々われわれを微笑ましめるか。

行軍に疲れた兵士らが、道ばたで取り交す会話のうちに、時として、いかに面白い調子を発見するか。

われわれの耳の周囲には、寧ろ、月並な思想の月並な表現が充満してゐることは事実である。

しかしながら、稀に、われわれの耳は、ある種の「魅力」に遭遇して、忘れ難き印象を留めるのである。

この快感は、美しき自然と、傑れたる芸術のみがわれわれに与へ得る快感である。

 私は、この快感を特に名づけて「語られる言葉の美」と呼びたいのである。

そして、この機会に、われわれの国語をもつてする「語られる言葉の美」を数多く発見し、新しく培養する必要を力説したいのである。

 西洋諸国の国語は、「書かれる言葉」と「語られる言葉」とを区別はしてゐるが、その差は日本のそれほど著しくない。

まして、日本のやうに、所謂口語体さへも、「語られる言葉」としての生命を失つてゐるやうな、不合理な状態に置かれてはゐないのである。

西洋の口語体は、即ち「語られる言葉」である証拠には、西洋人の演説を活字で読んで見るがいゝ。

更に一層注意すべき事実がある。

それは、彼等が、いかに長い手紙を屡々書くかといふことである。

そして、その手紙がいかに生彩に富んでゐるかといふことである。

彼等こそ手紙を「話すやうに書く」からである。

寧ろ、彼等はそれを「話しながら書く」のである。

「書きながら話す」のである。

「語られる言葉」の美は、これを「語り手」に求むべきことはむろんであるが、われわれ日本人は、前に述べた如く「語り手」として、多くはその点、甚だ幼稚である以上に、「聴き手」として、この魅力に鈍感であるばかりでなく、更に、自分に関係なく語られる言葉の中から、第三者として、この種の魅力を素早く捉へるといふ訓練に至つては、最も欠けてゐると云はねばならぬ。

この事実こそ、わが国の現代劇を不振ならしめてゐる最大の原因なのである――作者の側からも、俳優の側からも、将たまた、観客の側からも。

 試みにさつきの例を挙げて見よう。

こゝに一人の若い母親がゐる。

子供に乳をふくませながら、かう云つてゐる。

―― 「さ、早く、おつぱいを飲んで、ねんねして頂戴。

そいでないと、母ちやんは、……どうするか知つてて……?」  さて、こんなつまらない独白めいた言葉から、実際、われわれが、何か魅力らしいものを感じたとしたら、どうだらう。

その母親が美しい女性だからだと云ふものがあれば、私は、そればかりではないと答へる。

若い母親としての優しさが、言葉の調子に表はれてゐるからだと云ふものがあれば、私はそれだけでもないと答へる。

それなら、その言葉つきが極めて自然で、厭味がないからだと云ふのか。

いや、そればかりでもない。

声が朗らかで、歌のやうだからか。

いや、いや、そればかりでもない。

それならなんだ。

私はかう答へるより外はない。

――「さういふことがらをみんな含めた上で、なほ、その外に、その女は自分の言葉をもつてをり、そして、その言葉を自由に使つてゐるからだ。

言ひ換へれば、いかにもその女に応しい言葉で、その女でなければ表せないやうなものを、最も適切な時機に、最もはつきり現はしてゐるからだ」。

「語られる言葉」の美は、かくて、立派に文学的批判を受くべきものとなるのであるが、しかも、それは、「書かれた言葉」の美以上に、デリケェトで且つ複雑な効果をもつてゐるのである。

何となれば、それは一層、人間そのものの生命に近いからである。

 それにつけても、私は、日本人を不思議な国民だと思ふ。

なるほど、無表情といふことも、時によると、一つの魅力ではあるが、自分の思想感情を常に歪めながら発表することを、さほど苦痛と感じないらしいのである。

以心伝心とか、暗黙の裡に語るとかいふ甚だ神秘的な趣味を解する如く見えて、実は、誤解と泣寝入と気まづさとを生涯背負つて歩いてゐるのである。

そして、最も困つたことは、対手を退屈させ、一座を白けさせ、人前で調子を外す妙を心得てゐることである。

 現代の日本語が、実に蕪雑を極めてゐることは、識者の等しく認めるところであるが、その識者自らが、その蕪雑さを如何にして救ひ、少しづつでも国語の品位と魅力とを恢復しなければならないかについて、十分の用意と努力とを払つてゐないやうに思はれる。

尤もこの問題は、所謂識者だけに委しておくべき問題ではない。

今朝も不図、読売新聞を開いて見ると、巴里にゐる中村星湖氏が、その通信の中で次のやうなことを語つてゐる。

『フランスの国民くらゐ国語を大切に取扱ふ国民はない。

殊にフランス女、といふ中でも、生粋のパリの女くらゐ、フランス語の発音の綺麗なのを得意とするものはないやうです。

コメディイ・フランセエズの女優達が劇場に出かける前でも、そこから帰つて来てからでも、暇さへあればフランス語の発音の練習に夢中になつてゐるといふ事ですが、これは綺麗な声を生命とする職業だからと言つてしまへばそれまでだが、さういふ特殊の職業婦人でなくても、よく話す事、よい発音をひとに聞かせる事は、フランス女、殊にパリ女の誰でもが、一般的に、もしくは歴史的に、心掛けて来た、また心掛けつゝあるところのやうです。

「古きラテン文化」――それはフランス文化人、及びフランス女が最上の誇りとする、それは、こんな日常の用意から来てゐると言つてよいかと思ふ。

 日本の女の人でも花柳界などには、よほどこの声の練習があり、たしなみがあるらしいが、動機も目的も全く違ふ。

普通の社会だと、日本語を綺麗にしかも明瞭、的確に話さうとする人があるかないか? 言葉を愛し、言葉を惜しみつゝ、対者によき感じ(殆ど芸術的な感じ)を与へ、また十分の理解を得させようとして、言葉の発音や調子や組立てにまで始終気をつけてゐる日本の女は、割合にすくないのではあるまいか? 紅や白粉で面上を糊塗する事は知つてゐても、腹の底から、魂の奥から発して来る言葉を磨く事を忘れては駄目だ。

日本語がいつでも乱雑に流れ、標準を失ひつゝあるのは、国語の整理と統一とに始終周到の注意を払つてゐるフランス学士院のやうなものが日本にないからではなく、国民一般が、殊にいろんな関係から、言葉を重んじなければならない日本の女達が、それをあまりに出鱈目に、無自覚的に、話すといふよりは寧ろ発散しつゝあるからだらう。

これは特に日本の若い教養ある女性の反省をうながしたい点だ。

よき科学、よき哲学、よき文学、よき芸術、一括してよき生活はよき言葉によつて語られたものでなければならない。

わが国にも、昔はそれがあつたやうです。

溯つて万葉、古今の時代、降つては元禄、享保、または文化、文政の頃、その時代、それらの頃のよき文学、芸術は、わが国民のよき言葉の蒐集、結成であつたと断言されないでせうか?』  これは、中村氏ばかりでなく、仏蘭西に少しゐたものなら、誰でも気のつくことで、それをまた、誰でも日本への通信として伝へたく感じる事柄であるが、中村氏が、仏蘭西の女はと云つてゐることは、恐らく、それが一番目立つからで、実は、仏蘭西人の悉く、つまり、男も女もと云つた方が、より適確に事実を伝へ得ると私は思ふのである。

 仏蘭西人の「語る言葉」の魅力は、その国語の性質に負ふことはもちろんであるが、それ以上に、「言葉」を愛すること、従つて、「言葉」を自分のものにしてゐることが最大の原因である。

これは、知識の高下や、教養の有無に関係がなく、強ひて他にも原因を求めれば国民の性情が、明快さを尊び、婉曲を好み、当意即妙を悦び、社交性に富むといふやうな点にも関係があるであらう。

要するに、彼等は、自己を表現することに巧みである。

自分の気持を、多少の誇張さへ混へて、正確(?)に表示する術を心得てゐるのである。

やゝ警句めいた言ひ方をすれば、彼等は、最も言葉の選択に苦しんだ時でさへ、少くともその苦しさを、最も巧みな言葉で表現し得る国民であると云ひたい。

 かういふ国民は、一面に、言葉のための言葉を弄し、談話のための談話に淫する弊に陥ることは免れ難く、その点、東洋に於いては、かの支那人に比すべき節もないではないが、私は、この「語られる言葉」の訓練に於いて、必ずしも仏蘭西人を引合に出す必要はないと思ふのである。

言葉の上で最もギコチなくさへ見える独逸人にしても、無口を誇る英吉利人にしても、さては、自分勝手に喋舌つてゐるらしい露西亜人にしても、それぞれ、その国民性に応はしい「物の言ひ方」に、到底日本人などが真似られない「自由さ」を見せてゐるやうに思はれる。

かうなると、彼等はわれわれに比較して、殆んど例外なく、「語られる言葉」の意識せざる芸術家だといふことができるのである。

さういふ国民から、かの傑れたる数多き舞台芸術家を出したことは、むしろ、当然だと云はなければならぬ。

二 話術以上の話術  話術といふものがある。

雄弁術を儀式的、本格的なものとすれば、話術は、着流し的であり、散歩的なものと云へよう。

何れにしても、所謂「術」の「術」たる所以を発揮しなければならぬ所に、意識的な努力と効果とを計算に入れてゐる。

 この話術なるものが、「語られる言葉」の美をどれほど豊富にしてゐるか、それを今こゝで問題にする前に、ひと通り、断つておきたいことがある。

それは、この種の「技術」は、単に技術としては、極めて微々たる役割をしか、われわれの生活の中に於いて演じてゐないといふことである。

殊に、この技術を以て職業とするものの中には、その技術以外のものによつて、われわれを顰蹙せしめる手合があまりにも多いといふことである。

 もちろん、古今の文学的作品中、その芸術的価値の一半を、この話術に負うてゐるものもあるし、教養ある人々の高い趣味に裏づけられた話術の妙は、屡々われわれを恍惚境に導くには相違ないが、これらは、何れも、その「技術」を体得して、その運用を誤らない才能の、ひそかに許された特権であつて、かの「話上手」を鼻にかけて、得々と駄弁を弄する市井の善男善女は、正にこの「技術」の憫むべき犠牲である。

 話術とは読んで字の如く、「話をする術」である、聴手を感動させ、興がらせ、自分の言葉に耳を傾けさせる一種の技術であるが、「語られる言葉」の効果は書かれた言葉のそれ以上に複雑な要素を含んでゐるから、「書かれた物語」の話術的構成は、必ずしも「話される物語」の話術的構成に役立たず、また、「物語り風」の話術的技巧は、「対話風」の話術的技巧と一致しないのである。

 殊に、話術の「鍵」ともいふべき「聴手の心理観察」は、この技術の複雑性を一層拡大するもので、聴手が多い時、少い時、殊に一人きりの時、その聴手の種類、その状態、聴手と自分との関係、自分たちを取り巻く雰囲気、それらはみな話術の根本条件である。

 しかしながら、前にも述べた如く、この「技術」は、「技術」として遊離し、それだけが目立つやうな時、その効果の大部を失ふものであることを知らねばならぬ。

 甲の場合に成功した話術も、乙の場合には成功するとは限らない。

これは、既に、話術の話術としての遊離を示すもので、さういふ話術は、「職業的話術家」に委せておけばよい。

 われわれの日常生活を豊富にするものは、即ちこの種の話術ではない。

意識的にもせよ、無意識的にもせよ、「語られる言葉」の魅力は、人間そのものゝ「味」と、その自然な表現によつて、最も高く発揮せられるものだと思ふ。

そこから「話術以上の話術」が生れるのである。

「なんでもないことを面白く話す」のは、結局その人間の精神的な特質が、言葉の有機的作用を通して、一種の心理的快感を与へるからであり、畢竟、才気とか、熱意とか、濃やかな情感とかいふ心理的音符によつて、最も正確に、最も鮮やかに、何物かを聴手の耳に伝へ得た場合を云ふのである。

 従つて、「話術」の秘訣は、何よりも先づ、「自分を知る」といふことであり、「自分の話術」は結局、そこからでなければ生れて来ない。

 話術を看板にした「話」に真の魅力がない如く、お座なりと紋切形の口上が、いかに言葉巧みに述べられても、それは退屈以上の何物でもない証拠である。

三 言葉と人 「語られる言葉」の選択と配列は、「書かれた言葉」即ち文章のスタイルに相当するものである。

多くの場合、これが「話の調子」を決定する要素である。

そして、その「話の調子」こそ、人物の「声ある姿」なのである。

「文は人なり」といふ格言が半分の真理を含んでゐるとすれば、「話しをして見ると、どんな人間かわかる」といふ常識的観念は、正に九分以上の真理を語つてゐる。

 ある人物によつて「語られる言葉」が、当面の事実と心理以外、その人物の年齢、性、性格、教養、職業、環境、境遇、国、時代などを反映してゐることは、誰でも気がつくことであつて、今更説明の必要もないが、「語られる言葉」の魅力は、私の観察によると、かういふいろいろの条件が、その人物の「語る言葉」のうちに、最も色濃く、最も尖鋭に、最も調子高く、その上最も暗示的に表現されてゐる場合に、極めてよく発揮されるのではないかと思ふ。

 われわれは、常に、周囲の人物の「語る言葉」を通して、それぞれの人物の人間的魅力を感じ得ることを悦ぶと同時に、何等かの方法によつて、先づその人物を識り、然る後、その「語る言葉」の審美的効果を批判するのである。

 言葉の選択が、言葉の調子を生み、言葉の調子が、人物の「声ある姿」となるにしても、ある限られた言葉の表はれによつて、その人物の全幅が示されるものではない。

「語られる言葉」の魅力は、ある人物の一面を、最も特色ある一面を強調した「意味ある響のリズム」であり、人間の魂が何ものかに触れて奏で出づる即興曲である。

 一人物の属性は、「語られる言葉」に様々な特色を与へてゐる。

 男には男の言葉があり、女には女の言葉があり、老人には老人の、青年には青年の、子供には子供の言葉がある。

男の男らしい言葉は、女の女らしい言葉と共に、ある種の魅力を有ち、老人、青年、子供、それぞれの年齢に応しい言葉は、それぞれ別個の「味」を含んでゐる。

 性格気質も亦、言葉を決定する重大な条件である。

性格や気質の分類は、一々これをしてゐる暇はないが、例へば、強気、弱気、神経質、多血質、偏屈、八方美人、何れも、それらしい言葉をもつてをり、何れも、興味の対象となり得るものである。

 教養の程度は、最も言葉の選択に関係し、引いて、「物の言ひ方」を左右する。

教養ある男女の言葉に、一種風格ともいふべき魅力を求めることは容易であらう。

而も教養の種類方面によつて、その色彩は多種多様である。

これも一々例を挙げるわけに行かぬが、一般に教養のないものは、その「語る言葉」に理智的要素を欠き、精神的な感銘を受けることが少い。

しかしながら、知識そのものは、必ずしも「語られる言葉」に魅力を添へるものでなく、無知が、常に「語られる言葉」を醜くはしない。

「衒学的なこと」「くどさ」「固苦しさ」「熱のなさ」等は、知識を売るものゝ陥り易い弊であり、「単純さ」「淳朴さ」は、往々、無知なものの言葉に不思議な生彩を与へることがある。

 私は、特にこゝで芸術的、乃至趣味的教養の問題に触れたいのであるが、考へて見るとこれはあまり大きな問題である。

たゞ、この問題が、「語られる言葉」の美を殆んど決定的に闡明する問題であることを云ふに止めよう。

「ぶつきら棒な物言ひ」が時に好感を与へ、「如才なさ」が往々反感を招くが如きは、「語られる言葉」と、人物の性格、教養などとの関係を遺憾なく語つてゐるが、こゝにまた職業の問題がある。

ある職業にはその職業を反映した言葉遣ひといふものがある。

軍人らしい物の言ひ方もあれば、商人らしい物の言ひ方もあり、教師らしいのもあれば、職人らしいのもあり、芸者らしいのもある。

そのいづれを取つても、たゞ、それだけではなんの価値もない筈だが、ある場合には、それが、「語られる言葉」の魅力を構成する一要素となるのである。

 環境と境遇、即ちある人間の「育ち」「生ひ立ち」は「言葉」の上にも争へない特色を残す。

上流、中流、下層といふ風な階級的な分け方だけでなく、いろいろ複雑な影響をそこにみることができる。

 家庭の構成分子によつても著しい違ひがある。

例へば老人がゐるのとゐないのと、同胞の数、性別なども同様に関係がないと云へない。

 公卿、小間使、重役、自由労働者、下士官、居候、舅、末つ子、伯母、親友、先生の奥さん……一寸かう並べて見ても、そこに、それらしい言葉使ひがありさうに思はれる。

これは、想像して見るだけでも面白いではないか。

 国と時代、これも少し問題が大きい。

しかし、こゝでは、やはり一例を挙げるに止めよう。

 早く云へば、国とは、その人物の生れ、育つた国である。

広くしては、国家民族と結びつき、狭くしては、一国内の地方を指すのである。

 例へば仏蘭人には、「仏蘭西人の話し方」があり、独逸人には、「独逸人の話し方」がある。

国語の別はもちろん根本的な問題だが、それぞれの国語の特質を通して、所謂「語られる言葉」の表情そのものに相違が生じるのである。

これは、国語の性格に、文化の伝統、国民性の特質が作用するからである。

 日本国内でも、東北、関東、関西、中国、九州、みなそれぞれの言葉をもつてゐる。

そして、それは、みなそれぞれの地方を特色づける文化、風土並に気質に根ざす言葉である。

 時代については、「現代」以外にわれわれの「耳」は、その働きを延長し得ないのが残念であるが、その現代にしても、既に、幾つかの「時代」を劃してゐると云へるのである。

おやぢの時代、息子の時代、孫の時代等があり、おやぢは、息子との年齢の相違による「言葉」の違ひ以外に、時代の相違による「言葉」の「旧さ」を有つてゐる。

おやぢの遣ふ言葉は、単に老人の言葉ではなくして、実に前時代の言葉なのである。

即ちこの種の人物は、その「語る言葉」を通して、一つの特色ある「時代」を映してゐると云へるのである。

それがまた、場合によつては、意外にもわれわれの興味を惹くに足るのである。

 その他、健康な人の言葉は、病弱な人の言葉とどこかで背中合せをし、酔払ひは酔払ひの言葉しか語らず、革命家は革命家らしく物を言ふ。

 そして、最後に、当面の「事実」と、これに対するその人物の「心理」が、「語られる言葉」の内容と表現の根本を決定するのである。

四 声のいろいろ 「語られる言葉」は、「語られる」といふ条件にともなひ、「声」を除外することはできぬ。

言葉が、「如何に語られるか」は、「如何なる声」で語られるかといふ重要な点を含んでゐる。

 声には、所謂「好い声」と「わるい声」の区別以外に、様々な声のニュアンスといふものがある。

 このニュアンスは、例へば楽器の音色のやうなもので、「語られる言葉」の味に、著しい差異をつける。

そして、その差異は、啻に感覚的な効果に於いてのみではなく、実に、精神的印象を左右する場合が少くないのである。

「好い声」即ち「美声」の研究については、専門家の手を煩はすとして、私は、ここで、この声のニュアンスといふ問題を、あらまし吟味して見ようと思ふ。

 人間の声を、先づ、男の声と女の声とに分けてみる。

男の声は、男の声としての美しさをもち、女の声は女の声としての美しさをもつてゐる筈だから、男が女のやうな声を出すことはあまり好ましいことではあるまい。

尤も、日本の芝居には、女形といふ変態的存在があり、女形としての美声といへば、舞台化された女の声についていふのであらうが、私は、未だ嘗て、女形の喉から、「美しい」声を聴いたことはない。

これは、女形の芸を鑑賞する資格がないからかもしれないが、私は、なんと云はれても女形の「せりふ」だけはその声の点だけで有難いものとは思はない。

少くとも、あの女の喉から絞り出される男の声、(実は男の喉から絞り出される女の声)を聞くと、無駄な努力だと思ふ。

 西洋では、女優が男の役に扮することがあるが、それは常に年少の男である。

男女の声が、まだそれほどはつきり区別されない前の男の声は、中年の女優がさほど無理をせずに出し得る声である。

 次に、声を年齢によつて区別することができる。

年寄の声と若いものの声――これは男女の区別ほど厳密でないらしい。

年寄で声だけ若いからといつて、そんなにをかしくなく、若いものが、比較的老けた声を出しても、それほど聴きづらくない。

何れも極端では困るが、半白の老婦人が、妙齢の淑女と、声の区別がつかぬなどは甚だ陽気な話で、高等学校の生徒が大学教授のやうな声であつたら、さぞかし、頼もしからう。

 私は、自分の指導してゐる青年俳優に、「老け役」の声といふものを「作る」ことを戒めてゐる。

絶対に禁じてゐる訳ではないが、それより大切な「老け方」が、「言葉の調子」の中にあることを注意してゐるのである。

これを私は、「言葉の皺」と冗談に呼んでゐるのであるが、人間の言葉は、年齢と共に皺が寄るが、その皺は、所謂「嗄れ声」を指すのみではない。

それ以上、根本的な、言葉の中に織り込まれる感情の皺である。

生活の皺である。

青年の言葉には、声の皺がないばかりでなく、感情と生活の皺がない。

よく云へば、滑らかであり、悪く云へば、のつぺらぼうである。

声の皺は、生理的の変化を必要とする。

即ち、声帯の硬化によるものであるから、青年の喉を以てこれを真似ることは無理である。

ただ、感情と生活の皺は、観察力による研究の結果、ある程度まで獲得し得べきものであると私は信じてゐる。

「老け役」の失敗は、多くこの着眼を誤ることに原因するのではあるまいか。

 一体、「作り声」といふものは、それ自身不自然さを意味してゐる以上、決して「自己を語る」ために有利なものではない。

特殊な目的で「作り声」を必要とする場合がないでもないが、それは、一種の「物真似」であつて、低級な「芸」にすぎず、それによつて、忠実な自己表示は絶対に不可能と見なければならぬ。

まして、いかなる目的にもせよ、「作り声」そのものに、純粋の魅力を求めることは、求める方が無理である。

 ただ、無意識的に、殊に、感情の激発につれて、本来の声とは幾分違つた声が出ることがある。

このことはあとで述べる。

 声といふものは、先天的に、おほかたその特質を賦与されてゐるに相違ないが、一切の生理的変化が、幾分、後天的に行はれる如く、声も亦、いろいろの原因で後天性を帯びるものである。

 その著しい場合として、鍛へた声と、生(なま)の声とがある。

鍛へ方にもいろいろある。

洋風の声楽で鍛へたもの、義太夫や長唄で鍛へたもの、謡曲で鍛へたもの、琵琶や浪花節や詩吟、さては、演説や号令で鍛へたなんていふものもある。

 声楽で正しい鍛へ方をしたものは、一番合理的で、近代的で、繊細複雑な感情の表現に適してゐるだらう。

従つて、最も純粋な意味で美しい声と云ふべきである。

 義太夫、長唄、清元などの声は、それぞれ多少の特長はあるが、何れも日本人としての伝統的な生活――殊にその感情生活の明暗をうつすに応はしい美声である。

やや一面的ではあるが、洗煉もされ、多くの国境以内に開かれた耳には、十分快感を与へ得るものである。

 謡曲の声、これはなかなか合理的な鍛へ方をするものらしく、同じ日本人の封建的伝統生活を反映してゐるにしても、義太夫、長唄等の三味線に合せる声が、著しく庶民的であるに反して、これはどちらかと云へば、特権階級的である。

前者にみる被圧迫階級の忍従性が、こゝでは、特権階級の優越感によつて塗り代へられてゐる。

従つて、これも、ある時代には美声の代表的なものとなり得るであらうが、今日では、少くともデモクラシイの精神に反する声である。

変な声があつたものだ!  琵琶歌の声といふものは、今、はつきり「耳」に浮ばないが、流派によつて可なり違ひがあるらしい。

しかし、何れにしても、日本人の過去の生活を離れて、存在し得ない声であらうと思はれる。

 ただ、ここに、浪花節といふ奇妙な声楽がある。

この声は恐らく、卑俗低調なその歌詞に、最も似つかはしい声であつて、「浪花節を唸る」といふ言葉は、確かに、真を穿つてゐるのみならず、これが大衆的人気を集めるといふ原因は、歌詞、歌調の情けない魅力による以上に、この「唸り声」が発散する一種の安価な刺激によるのである。

この刺激は、これまた、封建的道徳の桎梏下に、諦めと反抗の間を往来する民衆の、辛うじて得る刺激の一つである。

役人と番頭と向ふ鉢巻の若い衆は、正に、この民衆を代表するものである。

 これに対して、詩吟も亦、封建末期的産物であり、その歌詞歌調は、幾分、純粋ではあるが、その感傷的音声は、浪花節ほど刺激的でないにしても、頗る近代人の神経を悩ますものに違ひない。

この声は、往時、自称革命家の悲憤慷慨に用ひられ、「憂国慨世の声」と響いたのであるが、その声がややわれわれの耳から遠のいた今日、再び、これに代る声が必要となりつつあるやうである。

 演説と号令、政治家と軍人以外に少い声であるが、どちらも、一概に、デマゴジイ又はミリタリズムの声として貶し去るべき性質のものではない。

男性的であり、意志的であり、調子ッ外れでない限り、よく通るといふだけでも強味がある声だと私は思つてゐる。

 もう一つ、頭で鍛へた声といふものがある。

これは、教養による自己批判と、一種の慎ましい矜恃によつて情操的にマスタアされた声であり、深みと余韻があり、どつちかと云へば幅の広い声である。

 更にもう一つ、生活で鍛へた声といふのがある。

これは、年齢の増加による声に似て、実はそれとも違つたもので、所謂、世路の曲折を経て、人情の機微に触れ得たがための声である。

沈鬱であるが底力があり、多少、荒れてゐることがあつても、澱みはない。

生活にひしがれた声は底力がなく澱んでゐる。

 人間の声は、また、その個々の性情、稟質を表はしてゐる。

銅羅声は鈍重で粗野、猫撫声は陰険で多情、金切声は気まぐれで打算的、裏声は非常識で見栄坊……などと、少々独断にすぎるかもしれぬが、幾分思ひ当る節がないでもない。

 鼻声といふのは、必ずしもその人物の性情を語るものでないが、多くは猫撫声に似て、あまり愉快なものではない。

それも、時として、廃頽的な情景の中に点出されれば、一種の感覚的魅力を添へる場合があるにはある。

さういふ意味なら、鼻声に限つたわけではないが……。

従つて、その原因が、風邪を引いて鼻をつまらせてゐるのでも、一向差支はないのである。

 黄色い声などと、声と色彩とを結びつけてゐるのは面白い。

 声を腹から出すとか、頭のてつぺんから出すとかいふのも、それぞれ感じが出てゐて面白い。

 高い声低い声は、理窟だが、太い声、細い声、丸い声、尖つた声、などといふのは感覚的だ。

 音楽の方で、バス、バリトン、テノオル、アルト、ソプラノなどと云つてゐるが、普通の声を、この区別で呼ぶことが近頃日本でもはやつて来た。

「声」といふ言葉は、日本でも西洋でも、抽象的な意味をもち、「意志」とか「意見」とかを表はす場合がある。

「神の声」とか、「民衆の声」とかはそれである。

 声は、それ自身「精神」なり「生命」なりをもつと解釈できるかどうか。

少くとも、「語られる言葉」のうちで、ただ単に機械的な役割を演じてゐるのでないことはたしかである。

 同じ言葉が、澄んだ声で語られる時、弾力のある声で語られる時、錆びのある声、艶つぽい声、あどけない声で語られる時、さては、濁(だ)み声、破鐘のやうな声、かすれた声、頓狂な声、さういふ様々な声で語られる時、その印象は決して同一ではない。

 優しい声、厳かな声、熱のない声、甘つたれた声、邪慳な声、などと云ふのは、それ自身、多少相対的な意味を含めた形容で、これは、声の調子と云ふ方が、より正確な場合もあらう。

特殊な心理の動き、ある感情の閃きをうつすのは、多く声の出し方による、その抑揚強弱明暗の度に外ならぬ。

 更にまた、感情の激発に伴ふ異常な声の調子を呼んで、怒声、笑声、歓声、うるみ声、おろおろ声、などと云ふが、このなかには、もう既に、声の領域から、広い意味に於ける言葉そのものの領域に足を踏み込んでゐるものもある。

 所謂「美声」は、云ふまでもなく、「語られる言葉」の魅力を増すことに役立つのであるが、前に述べたやうに、所謂美声なるものには、常に何等かの条件がついてゐる。

それは、丁度服装のやうなものである。

ある種の「美声」は、甲の人物によつては極度にその真価を発揮するが、乙の人物によつては、却つて不似合な声として顧みられないことすらあるのである。

 これに反し、所謂「よくない声」でも、ある人物の口から漏れる場合には、それが「よくない声」であることを忘れさせるのみか、時とすると、さういふ声なればこそ、その言葉が一層、言葉としての魅力をもつといふやうな場合があるのである。

 しかし、さういふ例は極めて稀であつて、その人物の人柄に似つかはしい「美声」は、その人物によつて「語られる言葉」を一層生彩あらしめるものである。

 所謂「美声」なるものの、どつちかと云へば感覚的魅力を主とするのに対して、専ら精神的魅力を生命とする一種の声が存在することを注意しよう。

それは前に述べた例の「精神」乃至「生活」で鍛へた声である。

この種の声は、必ずしも「美声」と呼ばるべきものではないが、「語られる言葉」を、最も高き意味に於いて、魅力づけるものであることを忘れてはならぬ。

 日本人の生理的弱点は、到底欧米人と所謂「美声」といふ点での感覚的魅力を争ふことはできないかもしれぬ。

しかしながら、われにまた残された一つの領域がある。

 舞台の俳優について云へば、「美声」は美貌と同様、最も貴重な「道具」であるが、それと同時に最も危険な武器である。

なんとなれば、ブレモン教授の説を俟つまでもなく、彼等はその「美声」を恃んで、その声に総てを委ねる弊に陥るからである。

つまり、「芸」に求むべきものを、「声」に求める過ちを犯すからである。

 劇場に於いてもまた、「美声」は必ずしも「立派な声」ではない。

五 訛り方  日本語の発音は、そんなにむづかしくない。

非常に合理的なだけに単純を極めたもので、「文字」を離れた発音だけなら、外国人でも一日で練習ができるだらう。

そこへ行くと、外国語の中には、なかなか、面倒な発音があり、十年かかつても容易に卒業のできない発音がある。

仏蘭西語で云へばin,un,eu,r,の如きは、外国人で完全に発音し得るものは稀であらう。

 ところが、その容易な日本語の発音さへ、完全にできぬ日本人が随分多く、その上、例の訛りがついて廻つて、往々「語られる言葉」の魅力を殺ぐのである。

尤も、この訛りのために、却つて愛嬌を増す場合もないではないが、それは、決して知的な意味での言葉の魅力でなく、多少とも偶然であり、標準とするに足らぬ魅力である。

 女の人の関西訛りは、なかなか言葉としての陰翳に富み、いはば洗練された訛りであるが、さういふ訛りは、ちよつと例外である。

 誰でも自分の国の発音や訛りを気にするとは限るまいし、それからまた、同国の人にとつては、それが寧ろ、言葉としての大切な魅力になるのであらうが、さうなると話は別である。

私も、嘗て東北地方を旅行して所謂「ズウズウ弁」のそれほど聞きづらいものでないことを知つたが、それは、実際、ああいふ言葉、ああいふ発音、ああいふ訛りを、東北の風土と生活の中では最もふさはしく感じ得るからであつて、東京のやうな場所で、これを聞くと、その「語られてゐること」が、東北の「土」と関係がなければないほど、いかにも不似合な、又は、唐突な感じを受けるのである。

 発音そのものは、たとへ、正しいとか、美しいとかいふ批判を受けなければならないにせよ、それ自身、「語られる言葉」の魅力を、決定的に左右するものではないのである。

 しかし、この議論は、多分に、同情的な観方を含んでゐる。

今日われわれが標準語を採択した以上、最早、自分の郷土の言葉は自分の郷土だけで幅をきかすべき言葉なのである。

他国のものにとつて、それは、言葉の意味だけは伝へ得ても、言葉としての魅力は、大部分失ふものと覚悟しなければならぬ。

 関西の映画館で、説明者が、関西弁を使ふと、見物がしきりに笑ふさうである。

そして、それらの見物は、多く、その説明者と同じ言葉を使ふ人々なのである。

これは不思議なやうで、不思議でもなんでもない。

日本人はさういふ人間であり、いまはさういふ時代なのだ。

そして、それ以上に、映画館は、もう、だれの国でもないのである。

 異様な発音と言葉の訛りは、第一に、「田舎」といふ感じと結びつく。

これは東京に育つたものの甚だつまらぬ「感じ」であらうが、その「田舎」は、どういふ場合にでも、肩身が狭いわけではなく、「言葉」といふ厄介な市場以外では、「都会」なるものと何等その価値に於いて相違があるわけではない。

寧ろ、政治家と学者と将軍の多くは、件の「田舎」弁を操る社会的成功者である。

 ただ、俳優だけには、絶対に発音の不正と、訛りの過多を許すわけに行かない。

なんとなれば、彼等は、商売道具を精選しなければならず、その道具は、「総ての言葉」を正しく、美しく、はつきり、自由に出し得ることが肝腎であり、「シンブン」を故ら「スンブン」と発音するのは差支へないが、「スンブン」をどうしても「シンブン」と発音できないことは、致命的弱点となるからである。

 訛りに関連してアクセントの問題は、近頃いろいろ自分でも疑ひをもち出してゐるのである。

ここでは、一つ面白い話を紹介すると、名古屋弁のアクセントは甚だ特徴のあるものであるが、私の友人で、その名古屋生れのチヤキチヤキが、仏蘭西語をやつてゐて、その仏蘭西語が、また、われわれの仏蘭西語と少し調子が変つてゐるのである。

向うの方が上手なのかもしれないから、うつかりそれは間違つてゐるとも云へずにゐると、その男が、ある時、仏蘭西人の前で本を読んだのである。

すると、その仏蘭西人は、果して、その変な調子に気がついたとみえて、しばらく、その男の顔を見てゐたが、やがて、にやにや笑ひながら、「君の仏蘭西語は、マルセイユ人の仏蘭西語そつくりだ」と宣告した。

六 表情 「語られる言葉」の効果を間接に助けてゐるものは、顔面の表情と、身ぶり手つきであるが、殊に顔面の表情は、「語られる言葉」そのものと分離して考へることは、困難なほど密接な関係をもつてゐる。

 普通、眼の表情を第一に問題とするのであるが、ある人の説によると、口の表情がこれに劣らず重大な要素であると云つてゐる。

これに次いで小鼻の表情が大切である。

私の知つてゐる範囲では、ヴィユウ・コロンビエ座のジャック・コポオは、鼻も特別大きかつたが、その小鼻の巧みな動かし方に於いて、正に巴里の群優を抜いてゐた。

例へば、小鼻をいつぱいに膨らまして、鼻の下を心持ち長くすると、それだけで、「君が今云つたことは、そりや嘘だらう」といふ意味をはつきり表はしてゐるのである。

かうなると、これはもう立派な「言葉」である。

 まして、「言葉」の間接手段たる身ぶり、手つき、その他一切の科(しぐさ)は、顔面の表情と共に、ある場合にはそれのみで人間の思想感情を的確に伝へるものである。

そこから、黙劇が成立するのであるが、そして、日本人は最も黙劇のへたな国民であるが、それはそれとして、「語られる言葉」の伴奏者たるこれらの一切の要素は、それ自身、必要以上に「目立つ」といふことも禁物である。

以下、身ぶり、手つき一切を含めて「表情」と呼ぶことにする。

 日本人が無表情であるといふのは外国人の批評で、実は、日本人の表情が彼等には不可解なのであるから、そんな批評は意に介するに足らぬが、私に云はせれば、日本人の表情は、あまり上手ではない。

上手ではないといふのは、心持ちが、そのまま、その通りに表情に表はれないといふことと、表はれた表情が、概してあまり美しくないといふことと、両方の意味を含んでゐる。

 心持ちをそのまま表情に表はさないのは、昔からさういふ風に教へられて来たからだと云ふかもわからない。

しかし、そればかりではない。

なぜなら、この日本人独特の「表情術」は、武士階級のみの専有ではないからである。

それよりも、私は、日本の険悪な風土気候が、われわれの「不自然な表情」を生んだ最大原因だと思ふ。

 武士道の教へる禁慾主義的生活は、たしかに喜怒哀楽を顔に表はさない――少くとも「極度に表はさない」傾向を植ゑつけ、その結果、嬉しい時に苦い顔をし、哀しい時に微笑をさへ浮べる奇怪な風習を助長したにはしたが、それ以上に、数百年、数千年を通じて絶えずわれわれの生命を脅やかし、われわれの生活を脅やかし、われわれの愛情を脅やかし続けて来たこの「美しき郷土」は、実に、地震と、雷と、暴風と、海瀟と、噴火と、洪水と、火事と、厳寒と、酷暑と、長い雨期と、そして、それらの災害による饑饉との一手販売人である。

かくの如き自然の脅威は、一方これに抵抗する精神力を養ひはするけれども、また一方人間の感情を萎縮させ、たまたま暢やかならんとする気持を乱し狂はすのである。

 民族の相貌と表情を観察した上で、その民族の住む国土が、いかなる自然の支配を受けてゐるかを研究して見るがいい。

大ざつぱに云つても、北欧の自然は北欧人の相貌と表情をもち、南欧の自然は南欧人の相貌と表情をもつてゐる。

そして、支那は支那人の、印度は印度人の……。

 日本の自然を美しいといふものがあれば、それは、風景のみを指して云ふのであらう。

その風景は単に「ピトレスク」な美しさしかもつてゐない。

遠くから眺める風景であつて、その懐に抱かれたい自然ではない。

 この議論はこのくらゐにしておいて、さて、日本人の表情は、かくの如く「言葉」の一要素として、最も不適当な条件を備へてゐるのであるが、これまた、さほど悲観するにも当らないのである。

なぜなら、表情も亦、かの「声」に於ける如く、その魅力は、必ずしも「言葉」と遊離して批判さるものではなく、殊に、所謂「表情の巧さ」は、決して、「精神的美しさ」を表示する最後の方法ではないからである。

「語られる言葉」の魅力は、かくて、これまた、「声」の場合に於ける如く、最も複雑な関係に於いて、「表情」のある種の魅力と結びつくのである。

 俳優の表情は、それだけで独立した演技の一要素であるから、こゝで取り立てては述べぬが、日本の俳優は、一般に、白(せりふ)と科(しぐさ)の一致、乃至、白を云ひながら、その表象をするといふ研究が、非常に幼稚である。

可なり研究が出来てゐる人でも、概して、その結果が類型に陥つてゐる。

七「語られる言葉」の芸術  われわれの日常生活は誠に殺風景なもので、「語られる言葉」の多くは、月並な、生彩に乏しい、たゞ単に「用事を足す」だけの言葉である。

たまたま、面白い言葉を耳にはさんでも、それは、一分間とは続かないのである。

これは、現代の日本のやうな国では已むを得ないことであらう。

しかしながら、この「最も快き瞬間」に、少しでも度々出会ふことを望むのが、生活を愉しみ、文化を愛する人々の常である。

 この点で、幾分恵まれてゐるとさへ思はれる西洋人でも、日常生活の中だけでは満足してゐない。

 それなら、どこにそれを求めるか。

「語られる言葉」の美が、最も輝やかしい魅力となつてわれわれを包む世界がたゞ一つあるのである。

 それは、いふまでもなく、劇場である。

 劇場は固より、その他の要素からも成つてゐる。

しかしながら、「語られる言葉」の美だけは、劇以外に於いてこれを完全に、十分に味ふことはできない、といふ一事を、私は人類のために悲しみ、また、俳優のために誇りたく思ふのである。

 寄席の落語や講釈は、なるほど、「語られる言葉」の一芸術であり、これに心酔する人々に云はせると、これほど「面白い」ものはないのであるが、私の見るところでは、落語や講釈からわれわれが求め得るものは、特定の階級に迎合する話術以外のものではないのである。

その話術は、なるほど、一つの確乎たる様式を生むまでに洗練されてはゐるが、その様式は殆ど「高座のマンネリズム」とも称すべきもので、民衆はそこに何等の新しい発見を期待することなく、たゞ漫然と聴き、漫然と笑ひ、そして、漫然と時を過してゐるのである。

「語られる言葉」の美は、時に、名人と呼ばれる話術家の舌端から、最も力強い真実の響をもつて生れ出ることもあるが、その真実にさへ、われわれはもう新鮮な生命を感じることができなくなつた。

何となれば、そこで語られる言葉は、われわれの言葉ではないからである。

所詮、現代の寄席は旧い言葉を語る民衆と共に、いつかは滅び行く運命をもつてゐるのだらう。

 今日の民衆は、かくて、「彼等によつて語られる言葉」の魅力を、最も皮肉なことには、かの映画館の中に求めつゝあるのである。

 映画説明者は、事実、「漫談」なる現代的寄席芸術の一様式を案出したのであるが、これがどこまで発達するか、今のところ疑問である。

 最近、ラヂオで「映画物語」といふ変なものが放送されるが、私は、いつか、偶然それを聴いて、こいつは何かになると思つた。

 ラヂオ・ドラマといふ形式についても、いろいろ考へたのだが、結局、擬音といふやうな機械的な効果はそれほど問題ではなく、「語られる言葉」のあらゆる効果と、その効果による聴取者の想像力が、将来のラヂオ・ドラマを決定するのだと思つてゐる。

 この種の想像力は、ある程度まで舞台演劇の鑑賞にも必要であつて、能や歌舞伎劇の多くは、就中、その著しい例であるが、ラヂオ・ドラマは、特に、この想像力を極度に利用すべき表現形式を取らねばならぬ。

 雨が降つてゐる。

――舞台でなら、本雨を降らすこともできるし、雨の音と、人物の動作や表情で、直接、これを見物に伝へることができるのであるが、ラヂオでは、やはり、人物をして、雨が降つてゐることを「語らせ」なければならぬ。

さうすれば、雨の音は第二である。

その語らせ方が、第一に問題になる。

 雨が降つてゐる。

――雨脚が光る。

庇にあたる雨の音。

人が空を見上げる。

硝子戸をしめる。

外から帰つて来たものが、傘の水をふり払ふ。

かういふ情景や、動作は、なるほど演劇の重要な一要素ではあるが、ラヂオでは全く効果がないか、或は甚だしく稀薄である。

 雨が降つてゐる。

――「雨が降つてる」と「語らせる」のも一法であらうが、これでは、聴取者の想像力を奪ふことになつて面白くない。

「どうしたといふんだらう、この天気は……」とでも「語らせ」れば、まだ幾分想像力を満足させることになる。

或は、「駄目ぢやないか、濡れた傘をこんなところへ置いちや……」かう「語らせる」ことも有効であらう。

もちろん、かうでなければならぬといふ型がある筈はないが、ラヂオ・ドラマの一要素はたしかに、「耳から眼へ」伝へられるイメエジの効果に外ならぬ。

 演劇のうちでも、古典劇に多く見るかのチラアドなるものは、この効果を十分に活かしてゐるやうに思はれる。

例へば、ラシイヌの如きは、その悲劇の悉くに於いて、血腥い場面を決して舞台に現はさず、必ず、一人物をして幕間に起つた事件の名描写を行はしめてゐる。

恐らく、実際の「立廻り」を見せるよりも、芸術的感銘は深いに違ひない。

 私は、元来、演劇の「眼に訴へる効果」なるものを、人物の表情以外、さほど重大なものと考へてゐないのである。

まして舞台上の機械的装置は、往々、観客の想像力を殺ぎ、芸術的効果を傷ひ、いはば幻滅に近い印象を与へるものであることを屡々経験してゐる。

人物の動作にしてもさうである。

その動作が激しければ激しいほど、俳優は自己をマスタアすることができず、或は舞台そのものの構造と調和せず、観客に一種の焦慮を与へ、時としては面をそむけさせるに至るのである。

例へば、舞台上で走つたり、倒れたりする動作などは、いかに熟練した俳優でも、デリケェトな観客を苦笑せしめずには措かないのである。

 この点、ラヂオ・ドラマは、大変助かるには違ひない。

しかし、悲しいかな、聴取者の想像力には限りがある。

見物の想像を許さぬ俳優の魅力ある表情姿態は、これをラヂオ・ドラマに求めることができない。

それにしても、不必要に見物の想像力を疲れさすことは慎しんだ方がよろしい。

あの音はなんの音だらうか。

あの叫び声は誰の叫び声だらうか。

眼のない聴手が、かう自問自答する努力は、やがて、神経の濫費となつて、作品全体の鑑賞を妨げ、遂には、アンテナを外せといふことになるかもしれぬ。

「耳から眼へ」伝ふべきものと、「耳から心へ」直接に愬ふべきものとを、区別吟味しなければならぬわけである。

不正確な物音や、誰のともわからぬ叫び声の如きは、徒らに「耳から眼へ」の神経を疲労させるばかりで、「心に」愬へる何ものも残さぬ結果に陥る場合が多い。

「見ようとしても見えぬもどかしさ」を与へてはならぬ。

「おのづから見えて来る面白さ」が、ラヂオ・ドラマの一つの新しい天地であると思ふ。

 この意味で、どうせ「眼は不用」なのだから、密閉された場所とか、真暗な処で起つてゐる事件がラヂオ・ドラマ向きの場面であるなどと考へるのは、単純な考へ方であると思ふ。

人間は密閉された場所や真暗な処で起つてゐる事件ほど、「眼で見たい」のである。

これくらゐ「もどかしい」ものはないのである。

しかも、さういふ場面は、実際の舞台で幕をおろしたまま、或は、舞台を真暗にして演じれば、それでいいのである。

ほんたうなら、さういふところは小説に書く方がよろしい。

 ラヂオ・ドラマは、寧ろ、実際の舞台では現はし得ない場面を選ぶか、限られた舞台では想像の範囲を狭められるやうな情景を求めるのが自然であり、得策である。

 ラヂオ・ドラマの一形式として、私は、前に述べた「映画物語」風のものを想像してゐる。

あれをあの形式で、創作にすればよい。

日本の新しい戯曲の誕生が、これによつて告げ知らされるといふことにでもなれば、欧羅巴に於ける悲劇の発生にこれを結びつけることもできるではないか。

 私は嘗て巴里で、名女優ララ夫人が、たまたまそのサロンに集つた十数人の友に、ラムのシェイクスピヤ物語中、ハムレットの一齣を朗読して聴かせたことを覚えてゐる。

私は少し疲れてゐたせいか、眼をつぶつて耳を澄ましてゐた。

これは天下一品のラヂオ・ドラマであつた。

否、ラヂオ・ドラマであるばかりではない。

それまで観たいかなる名戯曲の名演出よりも、戯曲的感銘に於いて劣つてゐるものではなかつた。

私はこの時、演劇の本質が、美しき言葉の美しき肉声化に在りと断言してもいいやうな気がしたのである。

尤も、その後で、陶然と半眼を開いて、上気したララ夫人の顔を打ち眺めるに及んで、これはまた、声だけで満足する法はないと思つたのも事実である。

 それはさうと、ラヂオ・ドラマも、機械を通るといふ致命的な弱点を、いかに処理するか。

人間の声が半人半電の声となるわけであるから、どんな美しい声でも、どんなに魅力のある「話し方」でも、電化されると、大半効果を失ふことになる。

これが解決されなければラヂオ・ドラマも遂に先が見えてゐると云はねばならぬだらう。

 俳優の白(せりふ)は、いふまでもなく「語られるために書かれた言葉」の肉声化であつて、俳優は、劇作家の創造した人物に扮して、その人物が語る言葉を語るのである。

劇作家は、その作品中の人物をして、最も戯曲的な言葉を語らせねばならぬ。

それは、俳優がその言葉を肉声化する場合を考慮し、「語られる言葉」の美を十分発揮し得るやうに組立てられた言葉である。

劇作家のこの用意は、俳優として当然これを尊重しなければならぬが、それがため、俳優の職能を軽視するものがあれば、それは大なる誤りである。

 度々用ひられる常識的な比喩であるが、演劇に於ける戯曲は、音楽に於ける楽譜であり、俳優は、演奏家である。

劇作家はいはば「語られる言葉」の楽譜を提供する作曲家にすぎず、これを舞台の上で、聴衆の耳を通して実際に「語られる言葉」の世界に移すのは、「声」といふ楽器をもつた俳優である。

 ここで俳優の演技論は差控へるが、以上数章に亘つて述べた問題は、要するに、俳優の白――即ち、戯曲中の人物によつて「語られる言葉」が、いかに俳優によつて肉声化さるべきかを考へる基礎条件である。

然るに、俳優は、自己の精神的肉体的素質の総てを「材料」として、作者の空想を実在化し、これを観客の「眼」と「耳」とに愬へて、最も有効にリズミカルな舞台上の生命を醸し出す一個の芸術家なのであるから、劇的作品中の一人物に扮するといふことは、その人物らしき肉体的条件を準備すると共に、その人物らしき精神的条件をさへ何等かの方法によつて充たさなければならぬ。

もちろん、作品の構成はその内容と共に人物の「行為(アクシヨン)」を規定し、その「行為」によつて、ある程度まで人物の精神的条件は表示されるのであるが、その「行為」に伴ふ、或はその「行為」を導くものは、その人物によつて、「語られる言葉」以外のものではない。

そこで、その人物に扮する俳優によつて「語られる言葉」は、あらゆる意味に於いて、厳正な批判を受けなければならぬのである。

 第一に、果して、その人物らしく語られたかといふことが問題になる。

 第二に、白として、「語られる言葉」の美を遺憾なく発揮したかといふこと。

 第三に、戯曲全体を通じて、舞台的生命のリズミカルな発展に十分の効果を齎したかといふこと。

 この三つの問題は、常に分離することは不可能であるが、作者は必ずしも人物それ自身をして、所謂魅力ある言葉を語らせようとはしないのである。

さういふ場合にも、俳優が、その人物の言葉をいかにその人物らしく語るかによつて、新たに白としての「味」を生じるのである。

これが「語られる言葉」の美である。

 作者が意識的に人物それ自身をして魅力ある言葉を語らせる場合もある。

その場合は、俳優の努力が二つの方向を取るのである。

即ち、前に述べた白としての「味」を失はないと共に、人物それ自身によつて語られる言葉の美を、極度に発揮することが肝要である。

 第三の問題は、この二つの場合を含めて、最も統一ある効果の配列に役立たしめねばならぬといふ最後の問題であつて、結局、部分的に発揮される「言葉」の美的効果を積み重ねて、舞台の印象を統一ある感銘にまで高めていくことが、つまり演技の秘訣である。

「語られる言葉」の美は、こゝでやうやく、演劇の一要素として、その占むべき地位を与へられたことになる。

底本:「岸田國士全集21」岩波書店    1990(平成2)年7月9日発行 底本の親本:「現代風俗」弘文堂書房    1940(昭和15)年7月25日発行 初出:「悲劇喜劇 第二号」    1928(昭和3)年11月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2007年11月20日作成 2016年5月12日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。

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